篠田通弘講演会
“浮いてまった徳山村”とは何だったのか −廃村30年を前にして−

2013年12月15日
静岡県長泉町 IZU PHOTO MUSEUM






                                       (上段写真はY.H.さん撮影、下段写真は IZU PHOTO MUSEUM 提供)


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 IZU PHOTO MUSEUM で開催中の増山たづ子写真展「すべて写真になる日まで」開催に合わせて講演をさせていただいた。先着順50名の申込みということだったが、会場はほぼ満員。参加された皆さんに、心からお礼を申し上げなければならない。

 展覧会担当の研究員小原真史さんから講演依頼を受けたのは、7月のことだった。

 昨年亡くなった小原博樹さんは、真史さんの実父にあたる。僕が高校生時代から尊敬してきた人だった。考古学の上においても最もよき理解者であると同時に、最も厳しい言葉を投げかけてくれた人でもあった。
 毎年夏になると、博樹さんに連れられて徳山村塚にやってきていたのが真史さんだった。初めは夜泣きがひどかったマー君だったので、小原さんはあやすのが大変だった。「やっと寝た」と言って、僕たちの中に加わってビールを飲んでいたことは昨日のように覚えている。マー君も5歳になる頃には、僕の教え子たちに連れられて川遊びをするようになっていた。風船になる木の葉や、石鹸の草など、見る物すべてが目新しいもので、マー君は目を輝かせてついて回っていた。
 再会したときにはすでに映像作家として活躍していた真史さんだったが、その頃の様子を鮮明に覚えていることに、僕は驚いた。

 そんな真史さんからの依頼だったので、二つ返事で引き受けた。

 しかしその後、僕はずっと悩み続けた。講演の前日まで悩んでいた。
 講演後に真史さんにそのことを話すと、「じゃあ来なかったということもあったのですか。」と彼は言った。もちろんそんなことはない。しかし、プレゼンを作り上げても、やはりどこまで話すべきか悩んでいた。

 僕は結局、僕が話したいことの半分を1時間半の講演に詰め込むことに決めた。後段に核心があるのだけれど、それを理解してもらおうとすれば、やはり順序だてて話すしかない。そうすると、伝えたいことのほぼ半分しか伝える余裕はない。でも、半分だけでも伝えられたら、僕の役割は果たせるのでないか、そう考えた。

 講演は1時間半の予定だったが、延びても構わないという言葉に甘えて、正味2時間10分話させていただいた。しかし、大幅に割愛して、僕が本来伝えたい内容からするとほぼ3分の1が伝えられただけだった。辛く苦しい思いで、講演を終了した。
 参加者の方が、この続きはいつどこで聞けるのか、このまま終わったらだめでしょう、と担当者にたずねている様子を拝見し、ただただ感謝するほかなかった。

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 僕の生まれ故郷は徳山村ではない。

 僕は1978年4月、大学卒業と同時に徳山小学校塚分校に赴任した。以来、へき地3年という常道に逆らって9年間徳山村に暮らした。最低10年は居続けたいと思ったが、残念ながら丸9年を過ぎたところで徳山村は廃村となった。僕は合併先の藤橋村に移住して、今日に至っている。
 僕が初めて徳山村を訪れたのは、まだ学生の頃だったから36年も前のこと。そして徳山村で暮らすようになってから35年もたつ。長かったようにも、ほんの一瞬だったようにも思える。

 僕が今日までずっと徳山村に関わり続けるとは思いもしなかった。少なくとも、初めの1か月の間は。
 そういう意味でも、徳山村と徳山ダム問題は僕の生き様をも翻弄してきたといえるかもしれない。しかし僕は、どんな逆流であっても、流されずに必死に乗り越えようとしてきた。傍から見れば愚かな生き方であっても、僕は僕の生き方に胸を張ってきた。

 僕は生涯を1考古学徒でありたいと願い続けている。そして1人の考古学徒として徳山村廃村という歴史的事実に立ち会うことになった。そのことから目をそらせるわけにはいかない。事実は事実として、そこからどんな歴史の真実を見いださなければならないのか、今僕がそのことを問われている。僕は自分を納得させて、講演に臨んだ。

 増山たづ子さんの写真は、見る人の心を打つ。

 先週、お子さんと一緒に横浜から来られた方は徳山村のことを全く知らなかった、という。それでも写真に衝撃を受け、この地でいったい何があったのだろうか、と思われたというメールをいただいた。

 僕はオープン初日の毎日新聞の取材に対して、「また徳山村に出会えた」と答えた。増山さんの写真は、徳山村の姿を、多くの笑顔の村民の写真を通して生き生きとそこに記録している。明るいからこそ、悲しく切ない。その思いを、写真から読み取って欲しい、とも思う。増山さんが写真につけたコメントをよく読むと、その明るさに深い影があることに気づくはずだ。僕は増山さんに、我が子のように可愛がってもらった。だからこそ、増山さんの気持ちを思う。

 増山さんがマスコミに登場する姿は、いつも明るく、笑いが絶えない。そんな姿が増山さんの姿だと誰もが思う。しかし僕は違う増山さんを知っている。増山さんが、心に落とす影を封印して、あえて明るい自分を「演じていた」ことを。
 増山さんが心に閉じ込め、あえて明るく振る舞い、明るく楽しい徳山村民の笑顔を記録し、もう一つの故郷をそこに作ろうとしていたように僕には思える。だからこそ、誰もがそんな徳山村を思い描く。でも、そうではない村の姿があることは紛れもない事実だ。それを伝えるべきかどうか、僕は最後まで迷った。

 僕は徳山村の事実から、どんな徳山村の真実の姿が見えてくるのか、それを伝えなければならないと心に決めた。
 僕がこれまで全く話して来なかったことであるし、書いても来なかったことだ。
 そして今後このことについて触れるかどうか、今はまだ何も答えられないでいる。
 その迷いの中、最後まで話を聞いていただいた皆さんに、何をおいても感謝する他はない。

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 僕自身の備忘録として、講演の内容を簡潔に記しておく。骨子の段階で、かなりの分野を割愛している。例えば民俗学などがそうだ。また時間の関係で、かなりの部分が飛ばされている。今後もう伝える場と機会はないかもしれないので、その意味でもここに記しておく。

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 1、徳山村での出会い
   ・塚分校
   ・櫨原分校
   ・門入分校

 2、徳山村のルーツをさぐる−徳山村から日本の歴史を考える−
  (1)徳山村とは何だったのかを探る営み
   ・Y.N.さんのこと
   ・徳山村の歴史を語る会−徳山村内の分布調査−から「徳山村の自然と歴史と文化を語る集い(徳山村ミニ学会)」へ
   ・徳山ダム水没予定地内の発掘調査
  (2)徳山村の遺跡は何を語るか
   ・徳山村の縄文人はひっそりと暮らしていた?
   ・徳山村はなぜ縄文遺跡の宝庫なのか
  (3)徳山村に人が住み始めたのはいつ頃のことなのか
   ・寺屋敷遺跡が明らかにしたこと

 3、徳山村とはどういう村だったのか
  (1)自然の中の徳山村
   ・日本海指数と徳山の自然
  (2)地名が語る徳山村
   ・「ニュウ」地名を例として
  (3)方言を通してみた徳山村
   ・徳山村のアクセント分布
   ・戸入に残る特殊促音便
  (4)歴史に登場する徳山村
   ・中世の徳山村
   ・近世から現代へ−−近代化と徳山ダム−−

 4、「ダムが来るから滅びるのではない、滅びる村にダムが来る」
  (1)村の林業の変化
  (2)村の農業の変化
  (3)村の産業の変化と暮らしの変化、そしてダム計画

 5、村の教育とはなんだったのか
   ・高度経済成長と「若者は町へ」
   ・「へき地3年」教員の実態
   ・封印された「郷土愛」
   ・ダム移転を前提とする学校の教育目標−−「新天地で生き抜く子」−−

 6、僕にとって徳山村とは何だったのか
   ・徳山村に教えられたこと
   ・徳山村の自然と歴史と文化を残すことに全力を傾注した僕の35年間
   ・ダム問題が投げかけた影−−解職処分−−
   ・これから僕が生きていくということ、そして、なさねばならないこと

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                              ○(つけたしの雑感)

 12月15日はT.M.さんと一緒に岐阜羽島から新幹線に乗る。村を出る頃は大粒の牡丹雪が降りしきり、彼女を迎えに行った時も土砂降りだった。岐阜羽島で車をパーキングに預けた時に、あやうく長靴のまま出かけそうになった。T.M.さんは先週に続いて2週連続の IZU PHOTO 訪問だが、まだお母さんが若かった頃の写真が展示されていることは伝えてないらしい。

 名古屋駅から乗り込んだY.H.さんと合流。彼は夜叉ケ池で出会った山屋の青年で、11月の僕の写真展とトークイベントにも来てくれた。前日にNikon D800+24-70mmを購入したばかりで、本格的な写真を目指している。今回は講演風景の撮影をかって出てくれた。先週は、深夜までの星空のミニ撮影教室がたたって眠くて仕方が無かったけれど、今回はワイワイと賑やかに静岡へ。いつの間にか快晴の空に富士山が鮮やかだった。

 今回の講演とは別にうれしいことがいくつかあった。
 まず、講演で懐かしい教え子と再会することができたこと。彼H.S.君は、塚分校が休校になって隣の櫨原分校に僕が異動した時に小学校5年生だった。増山さんの写真には僕のすぐ左隣に写っている。若い女性と一緒に前の方で講演を聞いている人がいることに気づいていたが、まさかH.S.君だとはわからなかった。ちょうど30年ぶりの再会だった。素敵な彼女を奥さんと紹介してくれた。仕事の関係で今は焼津市に暮らしているという。直接担任をする機会はなかったけれど、小さな分校だからみんな大切な教え子だ。

 彼が6年生を卒業する頃に、村民の離村が本格化した。櫨原分校でも児童の転校が始まり、僕たちは『思い出文集』を作ろうとしていた。『ぼくら はぜはらの コボとコビ』(B5判、156ページ、限定20部)と題した文集は、全員が互いにメッセージを書き、イラストを描き、僕たち4名の分校教員が手分けして和文タイプを打って、僕のコピー機で印刷、製本したものだった。完成したのが卒業式当日の朝。おかげで卒業式に居眠りをしそうになったことを覚えている。

 その中でH.S.君は僕のことを次のように書いている。

 「篠田先生は、前、塚分校にいたので、初めて来たときもふーんと思っただけでした。篠田先生の話すことは、『男前の先生』ということと『すもう』のことです。ぼくも、よく昼休みなんかに誘われてやりました。勝つ時もあれば負ける時もありました。でも、篠田先生が本気を出してやれば負けるだろうなあと思いました。とてもおもしろい先生なので、ずっといてほしいなあと思いました。」

 は、は、は。そういえば、僕は自分で自分のことを「男前」って言ってたっけ。誰も言ってくれないからね。それから、よく相撲をして遊んだなあ。H.S.君は体も大きかったけれど、負けても、負けても、もう一回って挑戦してきて、結局僕が根負けすることが多かったような気がする。
 H.S.君が聞きにきてくれただけで、僕は来てよかったと心から思った。

 もう一つうれしいこと。
 それは来年の山行きを半ば強引に決めてしまったこと。メンバーは小原真史さん、Y.H.さん、T.M.さん、それに僕。一番若いT.M.さんは僕よりも30歳近く若い。一番上でも僕よりも20歳近く若い。真史さんとは以前から山へ行こうという話をしていたから山の話が出るのは自然。そしてY.H.さんも山屋。T.M.さんだって、女子大生の頃は一応ワンゲルだったからね。

 心が落ち着かなくて、つらいこともたくさんあった今年だったが、来年はよい年が迎えられそうな予感がする小春日和の1日だった。
 機会を与えていただき、心から感謝。
 徳山村の本を買っていただいた何人もの方にも、感謝。
 僕の著書『大昔の徳山村−縄文人の息吹を追って−』が売れた!と思わず声を上げてしまった。

 一足先に旅立った小原博樹さん、またいつか再会した時にこの日のことを報告するので、その時を楽しみに。

                                                                              (篠田通弘)

      


            






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【アサヒカメラ】1月号に増山展が紹介されています


トップページは、櫨原分校の写真。日付は1983年12月16日だから、ちょうど30年前。

中央が僕で、その左隣の青い服を着ている男の子が講演会に訪ねてきてくれたH.S.君。

30年の間に徳山村はなくなったけれど、僕の中では何も終わってはいない。







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【ご連絡】

12月15日、新幹線浜松駅でお会いした方へ。

連絡を待ちます。

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